
加藤 淳子
娘の話 その2
今日1月17日は、阪神淡路大震災が起きた日。
そして、娘の26歳の誕生日です。
いままではおめでとうの気持ちになれず、日を改めてお祝いをしてきました。
今日は私も娘も追悼の気持ちで、一日を過ごします。
あの地震の揺れで胎盤が早期剥離し、大量出血した私は麻酔も効かぬ間に
緊急手術となりました。
鳴き声も上げず、待機していた小児科の先生がすぐに酸素を口に押し込み連れて行ってしまったそうで生きているのか、死んでいるのか、男の子か女の子か。
知らされたのは、翌々日だった記憶があります。
体重525グラム。
右手の手のひらに体が全部乗ってしまう小ささ。
肌が透けて、鳥の赤ちゃんみたいな体に口から又は体中に機械の管がまとわりつき、
本当に、大きくなるのか助かるのかと涙しか出ませんでした。
半年入院し体重が3000グラムを超えて退院しても
療育センターや病院に通院し訓練を受ける日々。
一度は脳性麻痺の診断がくだり、自分を責めました。
絶えず多動を繰り返し、這えば立て立てば歩けの普通の成長が見えませんでした。
この時代は携帯も無く、同じ悩みを共有できる友人もいないので
孤独を感じながらの娘の子育ては、本当に辛かったです。
成長が遅い分娘は手がかかったし、母親学級などに行っても、普通のお母さん赤ちゃんを見るのが辛くて行けませんでした。
高校の支援学校に行く頃にやっと落ち着きが出てきたように思います。
障がいを通して巡り合った先生、友人、支援者の方々に随分私は助けられました。
障がいに軽い重いは無いと、手帳の判定申請にアドバイスくれた先生。
内容は違えど、障がいを通して悩みを打ち明けられる友人は私の財産です。
子育ては、正直辛い方が多かったけれど、
娘と歩んできた26年間は、とても濃い時間だったと思います。
子育ては、赤ちゃんの性格もあり本当に大変です。
まして、障がいがあるとお母さんが受け入れ前向きになるのには周りの理解や協力が
ないと、お母さんは参ってしまいます。
頑張りすぎないでと言いたいです。
ある方に言われた言葉ですが、
大震災で沢山の方が亡くなったあの日に小さく生まれて、育ったのは
亡くなった方の魂が娘を救ってくれたのだと。
そう思えるようにはなりませんが、どうか安らかにと祈ります。
娘が助かり今がある事に感謝する心のどこかで
テレビで追悼儀式を見ていると、なんだか泣けてきてしまうのですね。